
釜山→固城→慶州
朝7:00起床し今回も近くの「LG25」というコンビニで朝飯を調達、海苔巻きにしたのですがパサパサして不味かった。朝8時行動開始、まずは地下鉄で西部バスターミナルへ向かいます。中央洞から地下鉄1号線に乗り西面(ソミョン)で地下鉄2号線に乗り換え沙上(サジョン)で下車、前回金海行きのバスもこのターミナルから乗りましたので慣れたものです。この日の目的地は固城(コソン)、本当にこのターミナルからバスが出ているか心配だったので、案内所で「こそん」と言うと、いぶかしげな顔、何度か訊ねたのですが埒があかないので「固城」と漢字で書いて示すと「あーあコソン」とようやく判ってくれました。相当私の発音が酷かったみたいで一挙に自信をなくしてしまいました。とにもかくにもバスはこのターミナルから発着しているみたいだし切符も買えましたのでホッと安堵。切符を見せて乗り場を聞きバスに乗り込み出発を待ちます。バスは固城よりも遠くに行きますのでバスの運転手さんに「ちょぬん いるぼんさらむ、こそん、こそん」と言ったら判ってくれていたようです。
途中、結構大きな町である馬山(マサン)を経由し固城へは約2時間で到着、バスターミナルの周りには何もありません。ただ1kmくらい前方に目指す古墳群と思われる丘陵が見えます。「あれだ」と思い取りあえず行ってみることにしましたがなにやら工事中の様子、近づくに従い古墳であるとの確信は得ましたが、果たして見学できるか不安です。でも何食わぬ顔で入っていき作業をしているおにいさんに漢字とハングルで「松鶴洞古墳群」と書かれたメモを見せると色々と教えてくれました、しかしハングルなのでちんぷんかんぷん、指さす方に案内板が設置されているのが見えましたので、お礼を言ってそちらに向かいました。
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バスターミナルから古墳群が見えます |
固城のバスターミナル |
途中通った馬山の町並み |
固城にはほんの20分程度滞在したのみで、再び2時間かけて釜山に戻りました。沙上で昼食、暑かったので冷麺を食べ、地下鉄で老圃洞(ノッポドン)へと向かいます。扶余で買い求めた地図の釜山の部分を見ると老圃洞駅から直ぐの所に古墳のマークがありましたので行ってみましたが私有地の中にある模様、植木屋のアジュマに地図を見せて「コブン」というと、どうも分からない様子で思わず日本語で聞き返すと、「ニッポンジン!?」と驚かれました、日本人がわざわざ古墳を訪ねて来るなんて思っても見なかったのでしょうか。諦めて駅の方向に向かうと、途中森の方に人影が見えたので聞いてみることにしました。どうやら先祖のお墓の前で酒盛りの最中、韓国ではこうした風習があるようで良く見かけます。地図を見せて、「コブン」というとやはり知らないとのこと、ハングルで話しかけられたので「ちょぬんいるぼんさらむ」と答えると、ここでもビックリされてしまった、なんでこんな所に日本人がって感じ、更に興味を覚えた様でこっちへ来いと手招きで誘われ、紙コップを手渡されてなみなみとマッコリを注がれました。韓国では注がれたお酒は全部飲み干すのが礼儀です、勧められるままに鳥の唐揚げを食べながらマッコリを口に運びます。乳酸飲料を焼酎で割ったような飲み口で結構美味しい。年輩の方のお二人は日本語を微かに覚えている様子で、国民学校に通ったと話してくれました。年は70歳とのことで、「ちょどおもに、70歳」と言ったらニコニコしていました。これから慶州に行きますと、お礼を言ってその場を立ち去り、老圃洞のバスターミナルへと戻ります。
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松鶴洞古墳群 釜山からバスで約2時間、固城の町はずれにある古墳群です。その内1号墳は、韓半島に前方後円墳が存在する説の発端となった古墳ですが、最近の調査で、実は重なり合った3基の円墳だったことが、韓国・東亜大学校が1999年から2002年6月まで実施した発掘調査によって明らかにされました。 これまで1号墳は、測量や外観などにより前方後円墳と認識されていたましたが、発掘調査の結果、前方部は独立した円墳であること、また墳丘の括れとされた部分にも石室があることが確認されました。 栄山江中流域の前方後円墳の年代はおよそ5世紀末〜6世紀代で、それに対して松鶴洞1号墳は3世紀後期〜4世紀初めといわれ、同古墳が「前方後円墳の起源」という説も提唱され、前方後円墳の起源論にも一石を投じる結果となっていました。松鶴洞1号墳が前方後円墳ではないことが確認されたため、この見解は否定されましたが、発掘調査では、日本との関連を示す特徴が新たに発見されています。松鶴洞古墳群では、この3基の円墳には5〜6世紀を中心に築造された計15基の石室が確認され、日本列島にある一部の石室の様に内部を赤く彩色された横穴式石室も確認されました。また形式から判断して日本列島製と見られる土器や、日本列島で出土するものとよく似た装飾の馬具類、また埴輪と類似した墳丘に並べたと思われる円筒形の土器も多数出土したといわれています。 固城は釜山からバスで往復約4時間、一つの遺跡を見学するために約半日割いて出かけた訳ですが、松鶴洞1号墳にはそれだけの価値は充分ある古墳だったからに他なりません。 松鶴洞1号墳が前方後円墳として紹介されたのは1983年6月、当時嶺南大学の教授であった姜仁求氏が同大学の発行する嶺大新聞に発表した論文が最初です。その後、この新聞が日本国内の主たる考古学者に送られ、更にマスコミにも紹介され大きく報道されました。固城は古墳時代、小伽耶と言われた地域、日本のマスコミや研究者の一部は、今ではもう死語となった「任那日本府」と関連づけた論調のコメントや、一方韓国ではこの古墳を紹介した姜氏をはじめ前方後円墳の韓半島起源説の根拠とする見方など、政治的な問題も絡んで熱い議論が戦わされました。その当時の状況は一冊の本にまとめられ残っていますが、20年後の2002年の調査で結果的には前方後円墳ではないことが確定し、この論争に完全に終止符が打たれた結果となりました。しかしこの松鶴洞1号墳が切っ掛けとなり、韓半島では次々に前方後円墳の存在が明らかにされ、そして認知された訳ですから、この古墳の果たした役割は非常に大きいものであったといえます。 興味あることにその後相次いで確認された前方後円墳は、古墳時代中期、倭国と最も交流の深かったと言われる伽耶の領域ではなく、韓半島西南部、全羅南道の栄山江流域、当時の馬韓(慕韓)の領域でした。現在では10基前後の古墳が前方後円墳として認知されていますが、その築造時期や場所から推察すれば、「任那日本府」や「前方後円墳韓半島起源説」の物証に結びつけたりはできないことは明白ですので、国民感情の入り込まない形での純粋な研究成果が得られることが期待されます。 松鶴洞1号墳が前方後円墳ではないことが確定したため、現状では韓半島の前方後円墳は全て栄山江流域を中核とする地域に存在することになりました。しかしなぜこれらの前方後円墳が馬韓の領域に集中し、更に日本古代史の画期といえるに5世紀末〜6世紀前期のものがほとんどであるのでしょうか。これら韓半島の前方後円墳の存在意義というものを解明することで古代の日韓関係、ひいては「記紀」などの文献資料に記載された「筑紫磐井の乱」や「継体王朝の成立」の本質が解明できるのではないかと考えています。 次回訪韓する機会があれば、是非とも栄山江流域の前方後円墳を訪ねたいと思っています。しかし果たして何時になるのか、また新たな夢の実現に向かって邁進することになりそうです。 |
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老圃洞のバスターミナルは最近出来たようですが、日本で買った「○○の歩き方」には記載されておらずインターネットの個人のサイトで知りました。真新しいバスターミナルで、英語や漢字でも行き先が表示されていますので切符は簡単に購入できたのですが、バスの発車まで2分少々しかありません。窓口のアガッシも一瞬躊躇しましたが、発車時間を紙に書いて急げと合図、マッコリの酔いも回ってきているのにバスまで必死に走りました。始めての場所なのにキツかったけど、時間を有効に使えたので感謝、カムサハムニダ。取りあえずバスには無事に乗れて一安心、ソジュが残っていたのでラッパ飲みしていると、通路を挟んだ隣の座席のアベックから冷たい視線を浴びせられてしまった。
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洛東江にかかる橋より見た釜山の町 |
老圃洞のバスターミナル |
慶州の町中にある古墳群です |
酔いと疲れで何時しか夢心地になったのもつかの間、高速道路を一時間ぐらい走ると慶州のインターチェンジが見えてきました。町中に入ると見覚えのある風景が現れてきます、バスターミナルから目指す旅館までの道も完全に覚えていました。泊まった旅館は今回も「韓進荘旅館」、マスターも相変わらず元気で、私のことも覚えていてくれたようです。部屋も前回と同じ、荷物を置きまずは散歩に出掛けました。前回の訪問時、下調べが不十分で詳しく見学しなかった町中の古墳群を見学し、町の中心部へ向かいます。前回勾玉を購入した骨董品屋がいつの間にかビビンバの店になっていたのにはビックリしました。日も暮れて辺りが暗くなってきたので晩ご飯を食べに出かけます。何が食べたいとのこともなかったのですが、目にとまったお店にコムタンが赤い字書かれてあったのでその店にしました。しかし味は今一、お肉が煮込んでなくて堅かった。今回の韓国滞在は短い期間なので食べ物での失敗はしたくなかったのにうかつでした。
晩、お腹が空いたので近くのコンビニに飲み物を買いに行った帰り、例のカラオケアジュマの店の前を通りかかると、ジーッとこちらを見ているアジュマが、ハッと気がついたように、「イルボン!イルボン!」と言って駆け寄ってきました、どうも私のことを覚えていてくれたようです。強引に店の中へと連れて行かれ、でもこの日は疲れていたのでビールを2本飲んで帰りました。長旅の上、韓国に来て更にテンションが上がったようで、過度に疲れたか、夜はもうバタンキューで朝6時まで爆睡しました。
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金冠塚古墳 |
鳳凰台古墳 |
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金鈴塚古墳 |
銀鈴塚古墳 |
慶州
翌日は朝6時過ぎに起床、何回か通ったバスターミナル前の食堂でカルクックスを食べ、8時から行動開始。この日はレンタサイクルを借りて、慶州の遺跡巡りです。前回は一日5000Wだったのですが、今回は8000Wに値上がり、でも時間は夜の7時までとのことでした。
まずは国鉄の線路を越えて芬皇寺(ブンファンサ)へと向かいます。相変わらず地図の見方が下手で、なんか狭いガードを潜ると女子校の通学路だったみたいで好奇な視線を痛いほど感じます。まぁ平日におじさんが自転車乗って女子校の通学路をウロウロしているのは何処の国でもおかしいのでしょう、でも偶然来てしまったのだから勘弁してください。国鉄慶州駅の反対側は商店もなく、町工場のような建物が並んでいたり、様相が一変します。そうこうする内に芬皇寺への道順も判り、近くまで達すると看板があったので無事に辿り着くことができました。境内に入ると特徴的な石塔がデーンとあります。石の扉が開いていたので中を覗くと、石室の石積みのようで興味深かった。旧暦の4月8日、すなわち5月8日が日本で言う花祭りで、境内は提灯などで飾り付けられていました。このお寺は遺跡の宝庫らしく案内板が至る所に建てられています。新羅時代の井戸や石棺のようなもの、境内の隅には礎石が所狭しと置かれていました。
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芬皇寺境内、 |
芬皇寺境内に置かれた礎石 |
?、面白い顔でしたので思わず撮った |
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芬皇寺石塔:現在は三層ですが元来は七か九層であったといわれています。 |
芬皇寺石塔・龕室の石扉門柱の金剛力士像 |
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芬皇寺の石井 |
芬皇寺前の幢竿 |
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芬皇寺:善徳女王3年(634年)に創建されたと言われています。このお寺は慈蔵・元暁といった高僧が住持であったことでも知られていて、慈蔵が634年に唐から帰国すると国をあげて歓迎し善徳女王は慈蔵に命じて芬皇寺に住まわせ懇ろに給侍したといわれています。有名な塔は創建当時からのものと考えられ、新羅では最も初期の石塔と言われています。中国の塼塔を模して、安山岩を塼の形に切って積み上げた模塼塔と言われています。現在は三層で本来は何層あったのか不明ですが、「雑記」に「芬皇寺九層塔、新羅三宝の一つなり」との記録があり九層とする所伝もあるようですが、確定はされていません。塔の第一層屋身の四面に龕室があり、観音開きの二枚の石扉があり、そ左右には仁王像が彫刻されています。 |
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天気も抜群爽やかな風、絶好のサイクリング日和です。産業道路に出て慶州の町中を流れる北川を渡ると前方に小金剛山が見えてきます。その麓に昔脱解王陵がありました。何の変哲もない円墳で、昔脱解王の墓というのも伝承の様です、日本の天皇陵と同じ様なものですね。隣のにお寺があったので行ってみましたが、背後の丘になにやらいわくありげな廟が、更にその背後の松林にも「光臨臺」と漢字で書かれた廟が見えます、中を覗くと楕円形に岩が刳り抜かれています、結局何かは判らなかったのですが、「光臨臺」と言うくらいですから昔脱解王と関係するものなのかも知れません。
再び産業道路を南へと向かいます、北川を再び渡り、右手に芬皇寺を見ながら遠くに見える石塔目指して暫く行くと、左手になにやら遺跡を発見、慶州ではこうした田畑の中の遺跡は珍しくないようです。案内板によると遺跡の名称は「九黄洞模塼石塔跡」と書かれています。遺跡には石塔の残骸や石像などが置かれていますが遺跡としての価値は高そうです。
道を挟んだ反対側の水田中に塔がポツンと立っているのが見えます、「味呑寺跡三重石塔」です。季節柄田圃に水を張っていますので、あふれ出た水により畦道は泥濘が酷く、所々に深い水溜まりもあります。泥水の撥ねを避けながら漸く塔の前まで到着、周りは雑草が伸びていて、短パンを履いているもんだから痒くて難儀しました。
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九黄洞模塼石塔跡 |
味呑寺跡 |
上書荘 |
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昔脱解王陵:脱解王(4代)は昔氏の始祖に当たり、卵生説話の主人公で、東海に流れ着いた箱の中から生まれたと伝えられています。 |
味呑寺跡三重石塔 |
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九黄洞模塼石塔跡 |
九黄洞模塼石塔跡 |
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産業道路に戻り、慶州IC方向に進みます。国鉄の線路を潜ると、慶州市街から仏国寺へと向かう幹線道路と交差、ここで歩道は無くなってしまいました。ここからまっすぐ産業道路を行くと五陵の前を通り慶州ICへと繋がっていますので交通量が多く、大型トラックが轟音をあげて走っています。怖かったけど途中の上書荘にも寄りたかったので意を決して自転車を走らせます。トラックにはクラクション鳴らされるし怖いコワイ、五陵が近くなると漸く歩道が設置され一安心、無事に五陵に到着できました。300Wの入山料を支払い中にはいると敷地は広く、古墳までたどり着くのにも5分くらい歩きます。柵で区画された広い領域に5基の円墳がランダムに並んでいます。昨年見学した武烈王陵に比べると古墳の規模は小さめです。
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五陵 |
五陵 |
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新羅の始祖である赫居世王、その王妃英閼夫人、南解王(2代)、儒理王(3代)、婆娑王(5代)の五つの陵があります。後に紹介する三陵、景哀王陵などは全て朴氏の王陵と言われていますが疑わしいものが多いとされています。傾斜の緩い斜面に直径20m程度の円墳が5基並んでいます。 |
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五陵の前の道を真っ直ぐ南山に向かって進みます。歩道はあるのですがブロックの並べ方が酷くてガタガタです。仕方なく車道を走るのですが、車がビュンビュン脇を通り怖いの何の。地図に従い寺跡を求めて脇道にそれますが、特に遺跡らしいものは見あたらず、ふと見ると田圃の中に幢竿が立っているのが見えました。幢竿は田圃の中から生えてるようにニョキッと突っ立っています、案内板を読むと「南澗寺跡支柱」と書かれていました。そのまま曲がりくねった農道を景色を楽しみながらノンビリと走ると集落があり、その背後に塀に囲まれた寺院のようなものが見えます、行ってみると鮑石亭跡でした。この鮑石亭跡も慶州では有名な遺跡です、売店もあり多くの観光客が訪れていました。
途中、祗摩王陵の看板を見つけ訪ねてみました。慶州はホント王陵の多い所で、奈良や飛鳥と共通のものがありますが、日本の天皇陵と異なり全て芝が貼られ、武烈王陵のように中に入ることもできたりとオープンな感じがします。この王陵は何の変哲もない円墳ですが柵がしてありました。更に南下すると三仏寺の看板を発見、そのお寺の隣に三体の石仏が安置されています。一所懸命に石仏をスケッチしている人がいたので写真が撮りにくい、仏様の写真は撮るのにホント躊躇してしまいます。
続いて三陵の見学に向かいます。三陵は南山の登山口近くにあり、土曜日とあってハイキング客で賑わっていました。三陵はこの登山口から少し登った所にあります、柵に囲まれて三基の円墳が並んでいますが、周囲の景色にとけ込んで独特の雰囲気を醸し出していました。
三陵墓を見学後、お昼ご飯を食べに戻ります。暑い日だったので何を注文するか迷いましたが、結局ビビンバを食べることにしました。日本と違って韓国ではビビンバを頼むとキムチやら、ナムルやらが乗った小皿が一杯付いてきますが、この食堂では特に多いようで10品目はあったようです。生タマネギや辛いシシトウは苦手なので残しますが、各種のキムチは美味しいので平らげてしまいます。でも気温25℃を越えるような暑さなのに、オンドルが効いていて尻が暑いこと、韓国では何月頃までオンドルを使うのでしょうか。
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南澗寺跡支柱:南澗寺は蟹目嶺を背後にした西側にあった寺院で、現在は礎石と井戸などが残っています。このは金堂跡から少し離れた位置にあり、統一新羅時代中期8世紀中頃に建てられたものと言われています。 |
鮑石亭:鮑型に造られた石の溝に水を流し杯を浮かべて歌舞と酒杯を交わし詩を詠じる、『流腸曲水の宴』が催される離宮です。しかしこの風流の場は新羅千年の終末を迎えた悲しい歴史的事実が秘められていると言われています。 |
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祗摩王陵:祗摩王(6代)は婆娑王の子で、在位は112〜134年と伝えられています。南山の西麓に位置する、円周38m・高さ3.4mの円墳です。 |
慶州拝里石仏立像:慶州南山の西麓位置する三仏寺に隣接し三体の仏像が奉られています。中央の仏像は阿弥陀如来、左側は観世音菩薩像、右側には蓮華の花の上に乗った大勢至菩薩像があります。全体的な彫刻様式から製作時期は三国時代末7世紀と推定されています。 |
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三陵 |
景哀王陵 |
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三陵:阿達羅王(8代)、神徳王(53代)、景明王(54代)の陵と言われています。景哀王陵:は三陵の南にあります。三基の古墳のある三陵に対して地元では独陵と呼ばれています。阿達羅王の在位は154〜184年で、陵は直径18m・円周58m・高さ5.8mの円墳です。神徳王の在位は912〜917年と伝えられています。陵は直径18m・円周61m・高さ5.8mの円墳で横穴式石室墳と考えられています。景明王の在位は917〜927年と伝えられ、陵は直径16m・円周50m・高さ4.5mの円墳です。景哀王は神徳王の子で在位は924〜927年、陵は直径12m・円周43m・高さ4.2mの円墳です。927年に鮑石亭で宴会を開いている時に後百済の襲撃を受けて悲惨な最期を遂げたと言われています。 |
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食後、再び三陵の麓に戻り自転車を置いて南山のハイキングコースを歩くことにしました。この日は土曜日でもあり、家族連れや若者のグループなどが多く歩いていて、全く知らない場所でもそれ程不安は感じませんでした。雲一つない晴天、気温も高いようですが森の中を歩くし、湿気がなくカラッとしています。でもやはり山歩きはキツイ、しばらく歩くと汗が噴き出してきます。緩斜面をしばらく登ると沢がありその後はゴツゴツした岩の間を登るようになります、しばらく登ると「頭なき石仏坐像」がありました。頭部を失った石仏で、更に上を見上げると磨崖観音菩薩像が見えます。そこに至る山道は結構な急坂、岩登りの様でスリリングでした。
少し休憩後、他のハイカーに着いてゆくと道が二手に分かれています、左手の道を登り10分くらいすると森が開けた場所に達しました。大きな岩壁が見え、お線香の香りが漂ってきます。その岩壁に何体かの仏像が線刻されていました、三陵谷磨崖線刻六尊仏像です。ここで行き止まりの様なので、再び分岐点まで戻り右側の道を登ってゆきます。20分くらい登るとまた石仏がありました、三陵谷石仏坐像です。近くにはなにやら曰くありげな岩穴が開いています。古墳ではありませんがアナモグラーとしては覗いて見たくなるもの、開口部より頭を入れてみると内部には観音様が祀られていました。更に小径が延びていましたのそのまま進むと、森が開けて岩山になり、見上げると大きな磨崖仏の線刻がありました。景色も良いので見晴らしの良いところで休んでいると3人の若い女性に道を聞かれたのですが、ハングルですので当然判るはずもありません、「いるぼんさらむ、はんぐるまるあにえよ」というと驚いた様子、「イッポン?」と聞かれて、何が一本なんだろうと・・ああ「一人?」と聞いたのか、と思い「ひとり?」というと相手も納得した様子。ハングルも難しいけど日本語も外国人にとって難しいのでしょうね。皆さん日本人は団体行動をするものと思っていたので、日本人が一人で南山を歩いているのはやはり珍しいようでした。
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頭なき石仏坐像 |
磨崖観音菩薩像 |
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三陵谷磨崖線刻六尊仏像 |
三陵谷磨崖線刻六尊仏像 |
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三陵谷石仏坐像 |
三陵谷線刻如来坐像 |
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大通寺の幢竿。 |
線刻六尊仏像のお供え物、一休さんみたいで可愛かった。 |
望徳寺跡にはこうした遺物が散乱しています |
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南山からの眺め |
南山の中腹、岩がゴロゴロしています。 |
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そのまま道を進むと、人のあまり通らない道に出てしまい、声がする方向に進んでいくと、また別の3人の女の子のグループに出くわしました。その女の子達は、思っても見なかった所から人が出てきたのでちょっとビックリした様子、また道を聞かれたので、「いるぼんさらむ」と言うと、その中のひとりの女の子が日本語を勉強しているらしく、暫し日本語で会話、やはり嬉しいですね、特に若い女の子と話せるのは(^^)。その娘達は、行き止まりだと思っていた所から私が出てきたので、何処につながっているのかを聞きたいようでしたので「大丈夫OK」と言って別れました。しかしそのまま進むと先に見学した線刻六尊仏像の前に戻って来てしまいました。あまり南山に深入りすると迷いそうなのでここで戻ることにして、南山の東側にある遺跡を回ることにしました。もう産業道路は通りたくないので、少し遠回りになりますが南川の脇を通る道から国立博物館を経由し国道7号線に出ました。国立博物館は多くの人が訪れており、駐車場には出店も並んでいました。国道7号線は仏國寺方面に繋がる道で、歩道も完備されているので安心です。午後になり気温は鰻登りで暑いのなんの!真夏のような暑さ、喉がカラカラですが自動販売機が見あたりません。
産業道路の交差点を過ぎて少し行くと、線路の反対側に遺跡がありました、「陵只塔」です。線路脇に古墳みたいにも見える塔がありました。脇道にそれて南山の方に向かう道路を暫く行くと田圃に囲まれた森の中に幢竿が立っているのが見えます、望徳寺跡です。未舗装の農道を行ける所まで自転車で行き、その後はデコボコして足場の悪い畦道になります。滅多に人も訪れないのでしょう、雑草も生えて足が痒い。幢竿の近くには小さな円墳のお墓があり、その背後の開けた所に望徳寺跡がありました。礎石が整然と並んでいるのが見えます。
喉の渇きは限界に近く下手すると脱水症状になりそうなくらいです、再び国道に戻り自動販売機を探しながら仏國寺方面へと向かいます。道路の反対側に王陵が見えましたが帰りに寄ることにしてそのまま進みます。しばらくして運良くガソリンスタンドを発見、韓国のガソリンスタンドには綺麗なトイレ付きの休憩所があり、自動販売機も設置してありました。ウーロン茶が無いので、ポカリスエットを飲みましたが、一本じゃ到底間に合わず立て続けに二本を一気飲みしました。
しばらく休憩し、慶州市街の方向に戻ります。次に訪ねたのが先ほど見つけた王陵、訪ねてみると神文王陵でした。入口にはしっかりとした門があり、塀に囲まれた広い敷地の真ん中にに円墳がドカンとあったのが印象的でした。続いて四天王寺跡を見学、国道に面した遺跡の入口に幢竿が立っていて、その先の小径を登ると広い遺跡があります。所々に基壇があり礎石が整然と並んでいました。地面には布目瓦の破片などが落ちていて、遺物の好きな人にはたまらないでしょうね。日帝の統治時代、日本軍による鉄道施設のため遺跡の一部が破壊されましたが、その鉄道は今でも遺跡の中を通っています。
線路を挟んで反対側の丘陵に善徳女王陵があります。四天王寺跡から小径が延びていますが、そちらへ向かうには線路を渡るしかありません、踏切もなく、もちろん警報機など無い場所を自転車担いで渡りましたが、見通しの利かない所だったんで結構ヒヤヒヤしました。丘陵上にはお寺があるようで、現代の小円墳が並んでいます。ハングルで書かれた矢印に従って徒歩で緩い坂を上っていくと、松の木が生えた円墳がいくつも並んでいます、古くから墓域であったようです。しばらく歩くと前方に大きな円墳が見えてきました。日本の天皇陵と異なり柵も何もなく、墳丘には自由に立ち入ることができますが、登ったりするような罰当たりはいないのでしょうね。帰り道、直径10数mの円墳を二基発見しました。墳丘には松が生えていますので、時代はそこそこ古そうです。その内の一基には墳裾に列石がありました。
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陵只塔:狼山の西麓にあり、統一新羅時代に建てられたものと言われています。高さは4.49mで陵旨塔、陵示塔などとも呼ばれています。復元されたものですが原型は明らかではありません。文武大王の屍身の火葬跡と推定されていますが、発掘の際に大きな塑造仏像の破片が出土し塔廟とする説もあります。 |
陵只塔壁面の十二神将の彫刻:基壇の周囲には十二支神像が建てられ、蓮華文の石材で造られた五重塔と推定されています。 |
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望徳寺跡:「三国違事」の記録に寄れば望徳寺は神文王5年(685年)に創建された寺院と伝えられています。現在寺跡には東西に十三重木塔跡と金堂跡・講堂跡・中門跡・回廊跡等が残っていて、典型的な統一新羅時代の双塔伽藍配置を表していると言われています。 |
望徳寺跡幢竿 |
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神文王陵:神文王(31代)の在位は681〜692年で、陵は慶州の東南方にある狼山の南端に位置しています。直径29m・円周92m・高さ7.6mの円墳で、周囲には煉瓦様の石で五重に築き、梯形の護石44個が設置されています。東側には長大な石で造られた床石があります。 |
四天王寺跡・幢竿:文武王19年(679年)に創建された護国仏教の代表的な寺院です。668年三国統一後、唐が韓半島を侵攻しようと企てていることを事前に知った文武王がその対策の一つとして明朖法師に命じて創建させ、この寺で秘法を用いて唐の50万の大軍の二度に渡る侵攻を防いだ寺と言われています。 |
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善徳女王陵:善徳女王(27代)は在位632〜647年で、陵は狼山の南方斜面の中腹に位置しています。規模は直径24m・円周74m・高さ6.8mの円墳で、墳裾は自然石を2〜3重に重ねた列石で陵を保護しています。新羅時代最初の女王で、瞻星台を造り、芬皇寺の建立などで知られています。 |
善徳女王陵の陪塚でしょうか、大きいものでは直径10mくらいの円墳が二基ありその内の一基には列石がありました。 |
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四天王寺跡を横切るセマウル号、手前に私の自転車があります。 |
貨車を牽引するディーゼル車。 |
四天王寺跡でしばらく休憩すると、轟音を立てて列車がやって来ました。日に何本かしかないセマウル号です。元鉄道少年としてはシャッターチャンス、周りの風景にとけ込んだ列車の勇姿を撮ることに成功しました。
慶州の中心へと戻る途中、前回の訪問時に見学しなかった石氷庫や瞻星台に立ち寄ります、この辺りまで戻ってくると流石に観光客が多く、外国人の団体さんも多く見受けられます、ただ前回は日本語がそこら中から聞こえてきたのに、今回はあまり聞かれませんでしたが、SARSの影響なんでしょうか。町中へ入りレンタサイクル屋さんの手前で地図を確認すると、見落とした遺跡があることに気がつきました。遺跡の場所は北川の先、昔脱解王陵のよりもまだ先になります。時計は既に5時を回っていますが、カッ飛べば現地まで15分、探したとしても7時までには余裕で帰って来れそうなので向かうことにしました。
慶州の繁華街を抜け、国鉄慶州駅前から国道7号線に出て北川を渡り右に曲がり暫く行くと、お寺を示す標識が目にとまりました。読んでみると目的のお寺とは異なるようですが、場所的には間違いありませんので、自転車をおいて木々に囲まれた参道を進むと目的の堀仏寺跡四面石仏が目にとまりました。こういった石仏は写真を撮ることに気が引けてしまいます。目立たないように合掌しながら写真撮影しました。最後はこれも王陵です、北川と小金剛山の間の平地にあるようですが正確な地図はありません。北川の土手を走る道路を東に向かうと、斜め前方にこんもりとした森が見えたので行ってみたら目指す王陵がありました、憲徳王陵です。無事に見学し終えて慶州市街へと戻りますが向かい風が凄い、近道をするつもりで往路と別の道を通り帰りましたが、毎度のことですが結果的には遠回りだった様です。
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石氷庫:朝鮮時代の英祖14年(1738年)に月城の中に造られた氷室です。石氷庫内の石室は長さ19m・幅6m・高さ5.45mで長方形をなしています。 |
瞻星台:新羅時代、善徳女王の在位中に造成された東洋で最古の天文観測台です。花崗岩を加工した基壇の上に27段の石段を円筒形の曲線で積み上げ、さらにその上に丸く長い長大石を「丼」の字形に重ね、頂上部で天文観測ができるようになっています。下部の直径5.17m・高さは9.4mで地台石の長さは5.35mで、正面南側に四角形の出入り口があって内部に入ることができます。 |
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石氷庫のある丘は観光客で賑わっていました |
堀仏寺跡四面石仏・熱心にお祈りを捧げる人も |
美味しい参鶏湯のお店のメニュー |
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堀仏寺跡四面石仏:慶州の北側、小金剛山の麓に位置しています。高さ3m程度の大きな岩に色々な菩薩像を彫刻した四方仏です。「三国違事」では新羅時代の景徳王と関連する記録から、寺院名と彫刻の時期が判明しました。西側には阿弥陀三尊仏、東側の面には薬師如来坐像、南側の面には三尊立像、北側の面には菩薩像が二体彫刻されています。 |
憲徳王陵:憲徳王(44代)は在位809〜826年で、陵は慶州市の北側を横切る北川の北岸の平地に位置します。規模は直径26.8m・円周82m・高さ6mの円墳で、墳裾は屏風の様に整えた板石で補完し、護石には十二支像が刻まれています。現在は北側の「子」、「丑」、「寅」、「卯」、「亥」などの像だけが残っています。 |
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無事にレンタサイクル屋さんに到着したのは6時半を過ぎ、朝8時から10時間以上も出歩いていたのですからやはり疲れました。一度宿に帰って、ソジュを飲みながら暫し休憩後晩ご飯を食べに出かけました。最後の晩は必ず参鶏湯を食べることにしていますので、昨年11月にも食べたマスター一押しの参鶏湯のお店に行きます。日本語が堪能なアガッシはいなかったのですが、鶏好きにはたまらないですね、特にこのお店の参鶏湯は絶品です。帰りにコンビニで子供達へのお土産にと、レジのアガッシが笑うくらいチューインガムをしこたま買い込み宿へと戻ります。
PCで自分のホームページを閲覧後、階段脇のロビーでくつろいでいると、宿のマスターのお孫さんに話しかけられ、良かったらティールームに来ないかと誘われました。最後の晩だし折角のお誘いをお断りするのもなんだから行ってみることに。歩きながら話をしていると「初め、韓国人かと思いました」と言われました。今までインドネシア人やマレー人、トンガ人、ハワイ人などに見られたことがありましたが、また一つ国籍が増えたようです(^^)。ティールームでは地元の人と雑談、韓国は食べ物が美味しいとか、大阪の鶴橋の市場は韓国そのものだとか、鶴橋の焼肉は美味いけど高いとか、日本ではキムチは別に注文しなけりゃいけないし安くても5000Wはするので韓国はホント良心的とか、食べ物の話題が多かったなぁ。でも楽しい一時を過ごすことができました。
翌日は6時過ぎに起床、バスターミナル前の食堂に朝ご飯を食べに行きましたが、昨日ソジュを飲み過ぎてちょっとムカムカ、この日もカルクッスを食べたけど少々しんどかった。マスターに、「また来ます」と挨拶し8時のリムジンバスで金海空港へと向かいます。心配だった航空券も無事に購入、空港使用料が3000Wも値上がりしていた、日本はデフレですが韓国はインフレなんでしょうか。香港や中国への旅行を取り止めて韓国に変更したのでしょうか、空港には結構日本人も多く見受けられました。往路は韓国まで約3日、復路はたったの1時間強、やはり飛行機を使うと近いですね。
慶州は日本でいえば奈良でしょうか、2回やそこらでは到底周り尽くすことなどできない多くの遺跡・史跡があります。奈良や飛鳥に何度も訪れる人と同じように、私もこれからは機会があれば何度でも慶州を訪ねてみたいと思います。金海空港からも1時間少々の距離ですので、渋滞することを考えれば、釜山からとそれ程の時間差はないようです。今度は何時訪ねることができるのかわかりませんが、次回は慶州に腰を落ち着けて、行動範囲を広げて見ることも面白いかも知れません。でもまずは栄山江流域の前方後円墳をゲットしなければ。